沖縄戦・命懸けで守る大田少将

ケニー爺

2015年04月25日 05:32



【画像】TBS報道ドラマ:生きろ・戦場に残した伝言より

牛島満中将とともに戦い、玉砕した大田実少将 「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の意思を引き継げ
ザ・リバティ・ウェブより、有料記事のため大幅抜粋・編集 2015.04.23

《前略》
《中略》
沖縄戦で大田少将は、約1万人の将兵を率い、沖縄本島の南西部にある小禄(おろく)半島で戦闘を指揮し、玉砕しました。

天然の洞窟を利用した硫黄島とは違い、同司令官壕は何もなかった丘に鶴嘴(つるはし)などで築城されました。同時に、旧式の軍艦から取り外された艦砲や機銃などを陸戦の兵器に転用し、敵を的確に砲撃できる場所に設置するなど、強固な陣地を築き上げたのです。

陣地の構築に当たっては、周辺のサトウキビ畑が荒れてしまい、県民との軋轢が生じました。そんな時、大田少将は、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、緊急事態をどうかご理解ください」と県民に声をかけた結果、不穏な空気が収まったこともあります。

沖縄県民斯ク戦ヘリ
その後、米軍が沖縄に上陸。敗戦が決定的になってきた6月6日、海軍次官宛に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と呼ばれる、次の電文(現代語訳)を打ちました。

「沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように」

このように、日本軍は米軍と戦う余裕しかなく、県民を省みることができなかったこと、県民は軍の作戦によく協力してくれたこと、生き別れを覚悟して軍に女性を預けた親もいたこと、衛生兵が手当を諦めた負傷兵にも、看護婦が懸命に処置をしたことなど、この電文には、県民の実情が描かれています。
一方でこの中には、「天皇陛下万歳」などの表現は一切なく、「軍は県民を省みることができなかった」という自己批判から始まっており、県民を守りきれなかった断腸の思いがひしひしと伝わってきます。日本軍は、鬼のような心を持っていたわけではないのです。

しかし、70年が過ぎた今、大田少将などが命を懸けて守り抜こうとした沖縄に、再び侵略の危機が迫っています。沖縄を植民地にしないためにも、先人の意思を引き継ぎ、国防への意識を高めなければなりません。(山本慧)

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