井伏鱒二・文学「黒い雨」総裁の見解

ケニー爺

2015年08月21日 17:19

《前略》 ただ、広島から「平和」を発信するときに、あまりにも「被害意識」というか、「自分たちは被害を受けたんだ。悲しいんだ。苦しいんだ。人類の被害・災害の象徴なんだ」というような気持ちで発信すると、半分は天上界に届いていても、もう半分は地獄界に向いていると、私は思うのです。

残念ながら、その悲しみのなかに、恨みやつらみ、「人を害したい気持ち」「やるせない気持ち」などが強く入ってくると、必ずしも天上界的なものではなくなるように思います。

ですから、たとえ自分や身内に不幸があったとしても、どうか、そこで、頑張って心をクラッと入れ替えて、「明るく生きよう」「とにかく、明るく生きよう」という気持ちを強く持ってほしいのです。(中略)

「心のなかまで明るいものに変えていこう」「自分は明るい人間だと思おう」というように、繰り返し、繰り返し思っていると、だんだん潜在意識下に影響が出てきて、深く浸透していきます。
そうすると、心のなかに溜まっている、恨みの心や悲しみの心、不幸の心、人のせいにする心、「環境が悪いためにこうなったんだ」という心を変えていくことができるのです。

確かに、広島であれば、最後は何でも原爆のせいにすれば終わりかもしれません。
ただ、そうしたところで、どうにもなりません。《中略》

やはり、「変えることができること」にトライするべきでしょう。 それは、どういうことかというと、「事実を変えられないのなら、考え方を変えよう」ということです。 心の向きを変えましょう。心の思いを変えましょう。
それはできるはずです。それは各人の自由なのです。 例えば、あなたが心のなかで、人を憎もうが愛そうが、自由です。「あなたは人を憎んでいるから、愛するようにしてやろう」とか、「人を愛しているが、憎むようにしてやろう」とか、あなたの心のなかに手を突っ込んで、グルッと変えることはできません。
心のなかのことは、自分自身に、完全に委ねられているのです。 『アイム・ハッピー』


ほとんどの原発反対論者は、朝日・岩波系の〝平和主義者〟とつながっていますが、このへんの人たちは、みな、「原爆」と「原発」の区別がついていません。

広島・長崎に原爆を落とされて怒っているのであれば、原爆を落としたところに対して抗議すべきでしょう。それが正当な頭の使い方です。

ところが、彼らは、それができないために、「こんな悲惨な目に二度と遭わないようにしましょう」と言って、〝自家中毒〟を起こしています。そして、「誰が悪いかは分からないが、とにかく原子力が悪いのだ」と考えて、責任を原子力に転嫁しているわけです。

平和主義者たちは、原子力のほうに責任を持っていっていますが、原子力自体は、人類が開発した最先端の技術であり、上手に使って被害が出なければ、別に問題はありません。特に、日本のように資源のない国においては、救世主的なものなのです。こうした「半永久的にエネルギーを供給できる」というシステムは、なかなか手に入るものではありません。 もちろん、代替エネルギーの研究は進んでいますが、それらは、すぐに原発に代わることはできません。それは分かっていることです。 熱中症で大勢の人が亡くなるぐらいであれば、私は、マスコミの悪い報道を読まないほうがよいのではないかと考えます。 『されど光はここにある』


この放射線の問題は、広島県民や長崎県民を見ればよく分かります。現実に、原爆投下の日を中心にして、十万人ぐらいの人が死んだ所でさえ、人々は、その後も県を捨てずに、それを観光産業にまで変えて、力強く生き延びています。県を離れずに頑張っているのです。

ましてや、福島の場合は、原爆が落ちたのとは違います。外国のほうでは、「福島の原発事故は、スリーマイル島の原発事故ぐらい大きい」などというような情報が流れたこともありますが、現実には、放射能で人が死ぬ被害は出ていません。

今、マスコミが流しているのは、ほとんど、「もしかしたら、将来は、放射線を浴びたことによって発ガンするかもしれない」というような憶測記事ばかりです。

しかし、「ほとんどの人は、健康診断で放射線を浴びている」ということを考えると、それは、ばかばかしい話なのです。
毎年、私たちは病院に行って、そのくらいの量の放射線を浴びていますし、ガン治療のために放射線科があり、実際に放射線治療をしています。
ガンを治すために放射線を使っているわけです。
私たちは、そのくらいの量の放射線を浴びているので、このへんを、もう少し冷静に分析しなければいけません。 『されど光はここにある』

大川咲也加の「文学のすすめ」~日本文学編~より、抜粋・編集



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