江戸火消の新門辰五郎が慶喜を愛した訳

ケニー爺

2016年03月15日 17:53

 慶喜を守る奇怪な集団の素顔とは
 権力者が没落していく様は、哀れなものである。慶喜が江戸を去るときも、そうだった。

 板倉勝静といったかつての老中の顔もなければ、勝海舟の姿もない。幕臣ではただ精鋭隊といわれる部隊が、慶喜を水戸まで見送ったにすぎなかった。そんな中、異彩を放っていたのが、新門辰五郎率いる男たちである。

 辰五郎らは武士ではない。江戸の町火消が本職なのだが、彼らは慶喜一行の後をついて水戸へと向かった。彼らの手元には、幕府から預かった二万両の金もあった。何とも奇怪な集団ともいえるが、いったい彼らの素顔は何なのか。

 実は新門辰五郎とその一党は、慶喜がもつ、影の軍団、だった。辰五郎らは、慶喜の行く所にいつも影のように付きそい、慶喜の名誉を守ってきたのである。
 この新門辰五郎、単なる町火消の親分というよりも、一種の侠客といったほうが早いかもしれない。若い頃から、さまざまな武勇伝を残しているのである。

 たとえば、こんな話がある。ある大火事のとき、出向いて火消しに当たったはいいが、別の有名な火消と消し口を争い、大ゲンカになる。まさに「火事とケンカは江戸の華」を地でいき、江戸追放の刑を受ける。ところが、江戸には妾がいて通ってやらないわけにはいかない。これが発覚して牢獄行きとなる。ところが、翌年の大火事のとき、辰五郎は牢内にとどまり、囚人仲間を集めて消火の指揮をする。これを「遠山の金さん」こと北町奉行の遠山景元にほめられ、特別に罪を許されたという。
 こうして江戸市井のスターとなった新門辰五郎に、幕府からお呼びがかかった。慶喜が京都へ行くときに、一緒についていってくれというものだ。治安が乱れている京都で、天皇のいる御所や慶喜のいる二条城の防火に当たるのが任務である。これに感激して、辰五郎は八分二百人を引き連れ京都へ乗り込む。
だが、これにはどうもウラ話があるらしい。
 実は、早い頃から慶喜は辰五郎と知り合い、お互いに惚れ合う部分を感じていたようだ。実際、慶喜は辰五郎のことを「じじい」などと気安く呼んでいる。惚れ合うといえば、慶喜と辰五郎の娘およしも惚れ合う仲なのだ。
 そんな男同士の縁、男女の縁があって、慶喜は辰五郎をいざというとき頼りになる。影の男、と見なすようになったのだろう。日本一危険な町・京都で力を発揮しようと思ったら、腕っぷしのある、影の軍団、が必要なのだ。辰五郎一党の京都行きは、慶喜だっての頼みだったのかもしない。そうでなければ、これから先の辰五郎らの奮迅の働きぶりに納得できないところもある。




 慶喜のために涙を流した男
 辰五郎の京都生活は、羽振りのいいものだったらしい。彼の京都での本宅は後に京都府知事の官舎になっているほどで、その他に妾用の家もあったという。
 こうしたハデな生活のウラで、辰五郎一党は隠密のような仕事をしていたようだ。人足になったり、遊廓に遊びに行ったりするなかで、反幕府派の動向をキャッチして慶喜に報告するという役回りだ。この、影の軍団、の働きもあって、慶喜は反幕派の陰謀に対し、巧妙な切り返しもできたのである。
 この新門辰五郎の働きがひときわクローズアップされるのが、慶喜の大坂城脱出のときだ。その脱出劇はよほど慌ただしかったのか、慶喜は大坂湾の船上で大金扇の馬印を忘れたことに気がつく。
大将のシンボル、とでもいうべきこの馬印を新政府軍に取られでもしたら、十五代将軍、だった慶喜の面目は丸潰れである。
 これに気づいたのが、武士の名誉とは何の縁もない新門辰五郎である。辰五郎は大金扇の馬印を手にとるや、これをかついで仲問二十人と駆けはじめた。彼らはこの馬印を先頭に一気に東海道を駆け抜け、江戸まで無事に送り届けたのである。こうして慶喜の失態をカバーしてのけたのも、彼らが慶喜に対して好意を寄せている、影の軍団、だったからだろう。

 この影の軍団の力を認めていたのは、慶喜ばかりではない。慶喜の命を受けて、終戦内聞、を率いていた勝海舟も、彼らの力を頼った。それは、新政府車による江戸総攻撃が始まるか否かの瀬戸際のときである。このとき、勝は西郷隆盛との会談が決裂したら、江戸の町を焼き尽くす覚悟だった。江戸を焦土にすれば、新政府車に残すものは何もない。最悪の場合でも、新政府軍を共倒れに追い込むことができる。辰五郎は、この焦土戦術の実行役を、勝から頼まれていた。辰五郎も覚悟を決めていたのである。
 幸いこの計画が実行に移されることはなかったが、のちに上野の彰義隊が抵抗運動を行ったときも、辰五郎の一党は影で彰義隊をあれこれ助けている。
 辰五郎は、慶喜を、そして慶喜に尽くす人や慶喜がいた江戸の町が好きだったのだ。だからこそ多くの幕臣が見捨てた慶喜を見送りに、水戸までもついていったのである。このときばかりは、さすがの辰五郎も目を真っ赤にしていたという。

 この最後の将軍と、火消の親分、新門辰五郎の話は、やがて東京の町火消たちにも伝説として語られるようになる。大正2年(1913年)に慶喜が死んだとき、葬儀では東京の火消たちがハンテン姿にまといをかかげて勢揃いし、伝説の将軍、を惜しんだという。

新門辰五郎が上洛したのは64歳の時であり、静岡へ来たのは68歳、帰京したのは71歳のときであった。

【書籍】幕末維新40人で読むほんとうの徳川慶喜
最後の将軍とその時代がわかる事典 加来 耕三 (監修)より、抜粋・編集

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