徳川慶喜が愛した女性と自作油絵
徳川慶喜の晩年は、まるで現代人のように、パンと牛乳を好み、スポーツや釣り、サイクリング、油絵、カメラ、囲碁、顕微鏡、音楽、手芸(刺繍)など多趣味に生きられたようですね。甘い物がお好きでしたので、ケーキ様と呼ばれていたようです(笑)。
いや、ほんとに、静岡では、人々からけいき様と呼ばれていたようですし、本人も、電報ではケイキと名乗っていますね。異国語っぽいところが気に入ったのでしょうかね~。
徳川歴代将軍としては最長命の77歳(満76歳・大正2年・1913年)まで生きられました。
慶喜の父、徳川斉昭の子は男子22人、女子15人で合計37人の子供、でも生き残ったのは17人で、慶喜は7番目の男子だそうです。1860年没・享年61歳(満60歳)
ちなみに、徳川家斉(1841年没・享年69歳)の子と妻妾は、16人の妻妾、子は男子26人、女子27人の合計53人。成年まで生きたのは28名のようです。っま、これぐらい僕でもできますけどね~。
(大木こだま風、しゃがれ声で)「もう、そんなヤツおれへんやろ~、今んなヤツいたらアンタ、チッチキチーやで~、往生しまっせ~」(爆)
慶喜が愛した女性たち
慶喜の側室には、およしの他に中根幸と新村信がいる。この2人は、慶喜が将軍を辞めて静岡に蟄居したあとから活躍(?)する。
正室美賀子との間にできた子供は夭折してしまったが、2人の側室は次から次へと子供をもうけた。早くに亡くなった子供をいれると実に22人にもなる。この子供たちは美賀子を母親と仰ぎ、実の母の方は「幸」「信」と呼び捨てであったという。またもう1人、奥向きをとりしきる一色須賀という女性がいた。彼女は側室たちよりも高い地位をもっていて、子供の躾から家政までをとりしきった。
現在、慶喜の墓を囲むようにして、これらの女性たちは同じ谷中墓地に眠っている。
晩年の慶喜
慶喜は元来が器用な人で、隠棲後は趣味人として生きたところがある。狩猟、投網、油絵、そして写真撮影とその興味はとどまるところをしらない。
ことに写真に関しては、禁裏守衛総督時代から自らが被写体となったものが残されているし、慶応3年に松平春嶽、山内容堂、島津久光、伊達宗城の4人にも勧めて、写真にその姿をとどめている。
その慶喜が写される側から写す側になる。
糜喜は写真師・徳田孝古を屋敷に招いて、写真撮影を教授してもらっている。ここに殿様カメラマンが誕生し、膨大な写真を残し、当時の様子を知る上で貴重な史料となった。
晩年、公爵となった慶喜は毎週木曜日に宮中へ伺候していた。
ある日、御者が困った顔で侍女にもらした話がある。それは、宮中の帰り道、人気のないところにくると、慶喜が馬車を止めさせ、御者を横へ押しのけて、自分で馬を操ってしまうというのだ。公爵の大礼服も御者の服装も似ているし、もと将軍の顔など見たことがない人のほうが多いのだから、誰にも気づかれなかったらしい。
だが、御者にとってみれば、もし転落などしては、とヒヤヒヤしていたに違いない。案外、茶目っ気のある慶喜の姿だ。
【書籍】幕末維新40人で読むほんとうの徳川慶喜
最後の将軍とその時代がわかる事典 加来 耕三 (監修)より、抜粋・編集
【写真】狩猟姿・油絵作品(静岡県立美術館)・オーディナリー型自転車に乗る
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