2016年02月27日

イエスは教会には行かないで幸福の科学に来る

「真理」に抵抗する勢力とは~法話「聖なるもののために」(3)~
記事公開: 2016-02-20
ハッピー・サイエンス・サイトより、抜粋・編集
https://happyscience.me/#/news/20290

真実の思想が持つ力
 前号では、「真理が地上に打ち立てられ、聖なるものがこの世に行き渡るということは、新しい時代への扉を開く行為である」と述べました。また、「信仰心が深くなれば、普通の生活で感じる喜びとは違った、至高の幸福を感じる瞬間がある。聖なるものを否定して、真に幸福な人生を送ることはできない」と話しました。
 例えば、文学者として名を上げて、ベストセラーを出して有名になり、収入が多くなって称えられても、そうした聖なるものを信じなかった人というのは、この世的にいくら尊敬を集めたところで、結局、闇の底に沈んでいく存在になるわけです。あるいは、多くの人々を闇の方向へ導いたという実績ゆえに、そうなってくるのです。
 この世的に、聖なる方向に目が向いている人というのは、ある意味でお人好しにも見えるし、脇が甘いようにも見えます。また用心深い人から見れば、「あなた方は騙されているのだ」というふうに見えることもあるだろうと思います。しかし、真実は一つなのです。真実は一つで、本当にこれだけのことです。
 《中略》
また、小冊子として、私の英語説法のフレーズを集めたシリーズもありますが、それをパラパラと見ていると、日本語で言っているよりもはるかに、はっきりと言い切った言葉が数多くありました。「ああ、ここまで言い切っている。イエスの時代なら、もう十字架に架かっているだろう」というような言葉を言っています。それは、「三年以上は生かしてくれないだろう」と思われるものですが、幸いにして長生きしています。
 「あなたがたは二千年の間、イエスが再臨するのを待っていただろう。しかし、やってきたのは、その子ではなく、父そのものであった」というようなことを平気で書いてあるので、これをクリスチャンが見たら、串刺しにしたくなるぐらいのことでしょう。串に刺して火で焼くか、グリルがいいか、火あぶりがいいか、車裂きがいいか、石打ちがいいか、絞首刑がいいか、電気椅子がいいか、いろいろと試してみたいぐらいのことでしょう。
 「その思想が広がったら、大変なことになる」ということはあるのです。それは、宗教を信じない人だけではなく、宗教を信じる人にとっても同じことがあります。


真理の抵抗勢力になる既成宗教
 《中略》
 キリスト教の世界でも、「イエスが今、再臨したとしても、もう一回生まれたとしても、たぶん今の教会そのものが許さないだろう」と言われています。二千年前の教えと同じことを、今、言うはずがありません。全く一緒なはずがありませんし、奇跡を起こしても、信じるわけがありません。「詐欺師」「トリック師」と言われるはずですし、「まず、教会制度そのものが敵になるだろう」とも言われています。
 本当に聖なるものに近づくにあたっては、俗世的な人や、そういうものを全く認めない人、つまり、この世の「かっこ付きの常識」のなかに生きている人たちそのものも、一種の抵抗勢力ではあるでしょう。
 また、既成の、古くからあるところの、千年、二千年と続いている宗教そのものが体制を維持するために、新しい宗教改革、あるいは天上界からの聖なる革命というものを許さない、ある意味での保守勢力になってしまって、排除する原理に働くことがあるのです。


今後、現れる「敵」とは
 私も、年に何回かは、イエスの霊指導により説法しており、クリスマスのころにはよくやっています。
 イエスがキリスト教会に行かないで、「幸福の科学」などという、漢字と平仮名が交じった教団に行って説法するなんて、そんなことは許されないでしょう。肝心のキリスト教会はどうしているかというと、例えば、テープレコーダーを腰につけて、説法のテープをかけながら、みんなで旗を持って、街角で立っているようなところもあります。
 にもかかわらず、イエスは教会に行かないで、幸福の科学に来るなんて、彼らは嫉妬してしまったり、許せなかったりすることもあるかもしれません。
 われわれも、かなり目立ってきました。それは、ある意味での成功でもありますが、これから出てくる敵は、もう一段大きいかもしれないということも意味していると思います。もう一段大きな敵、あるいは、「この世そのものを守ろうとする何らかの力」でもあろうかと思うのです。
(以下、次号)

2010年3月28日幸福の科学・白金門前支部法話