2015年12月13日
吉良殿が憐れだね・忠臣蔵の真実
菅官房長官の過去世は、主君のためにあだ討ちを成した大石内蔵助ですよね。「おたくの裏で眠っている」、と仰ってますね。幸福の科学・東京正心館は港区高輪2-1-17ですね。その裏が「忠臣蔵」浅野家の菩提寺・泉岳寺。港区高輪2-11-1ですね。
また、麻生副総理は真田幸村の兄の真田昌幸ですね。幸村はまだ明かされていませんですね。なにか時期的な理由等があり明かさないのかもしれません・・意外な人物かも・・
ちなみに、DAIGOの叔父の竹下登氏は斎藤龍興ですし、北川景子は小野小町でしたが、じゃぁDAIGOは誰の生まれ変わりなんでしょうかねぇ~、って、関係ない話に行ってしまってゴンメ(爆)

「忠臣蔵」で有名な元禄赤穂事件の発端は元禄14(1701)年3月14日、江戸城中「松の廊下」における刃傷沙汰にあります。折しも京都からの勅使饗応の期間中、接待担当の大名である赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が、儀式儀礼を指揮する立場の高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に斬りつけたのです。
2度に渡り切りつけられたものの、吉良上野介の命に別状はなく、切りつけた浅野内匠頭は即日切腹、被害者とされた吉良上野介はお咎めなし。
江戸時代は「喧嘩両成敗」が慣習法として浸透していたため、その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石内蔵助良雄(よしたか)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名は、主の敵討を誓います。
紆余曲折の末、元禄15年12月14日未明に、本所へ移った吉良邸へ討ち入りし、見事その首級をあげたのです。
当然ながら、浪士たちはその後、切腹となるのですが「生命を賭して主の汚名を晴らした忠義の武士」として、語り継がれたのが「忠臣蔵」の物語です。
しかし、実際はどうであったのでしょう? 当時の時代背景や、さまざまな文献を照合していくと、そこにはまったく違った「赤穂浪士」の姿が浮かび上がってきます。
そもそも、なぜ浅野内匠頭は、吉良上野介に斬りかかったのか?そして、なぜ浅野内匠頭だけが切腹を申し付けられたのか?
前述の通り、内匠頭は切腹なのに、上野介はお咎め無し。喧嘩両成敗のはずが、相手方はお咎め無しでは赤穂武士の面子が立ちません。そこで討ち入りへとつながったわけですが、四十七士の内訳を見てみると、不思議な現実に幾つも出くわします。
例えば、当時、赤穂藩を統率していた四人の家老のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助だけです。家老の下にいた五人の組頭は、全員、吉良邸へは推参していません。つまり、上級藩士の討ち入り参加者は、“家老”の内蔵助ただ一人だけであったことになります。
次いで、赤穂浪士の主力ともいうべき馬廻りクラスの19名。彼らは戦場において、主君の馬を守るのが役目ですから、参戦はうなずけます。ところが腑におちないのが、彼らとは別に、まとまった人数を出した軽輩の人々18名。彼らは藩主内匠頭の顔も、おそらく声すら聞いたことはないはずです。にも関わらず、仇討ちに参加しています。
要するに彼らは50年前の世に溢れていた、「傾奇者・かぶきもの」の生き残りなのです。「侍道」の勇気を重んじ、「一分」に体面を賭け、売られた「喧嘩」は買わぬことのない人々。そもそも「傾奇者」は戦国時代、合戦での勝利を唯一無二とした、武士のアイデンティティから派生したもの。
勝つためには己れの全てを放棄しても、決して悔いることのない精神です。しかし泰平の世となっては、その存在意義を失ってしまいました。そこで彼らが起こしたブームが「殉死」です。寛文3(1663)年に四代将軍・家綱が「殉死」の禁止を制度化しますが、一部の傾奇者は「殉死」への思いを捨て去ることができなかったのでしょう。彼らにとっては、純粋に主人の仇を討つのが主題ではなく、自分たちが世間に顔向けのできる「一分」を手にすることの方が、重大事であったわけです。
その最大の具現者こそが大石内蔵助でした。内蔵助は譜代の家老でしたが、当時の藩を引っ張っていたのは、一代家老の大野九郎兵衛。内蔵助は「昼行灯」と揶揄されるほど出る幕がありませんでした。ところが、主君が不意に上野介に「喧嘩」を売った。このとき、初めて内蔵助は己れのやるべき役割を自覚したのではないでしょうか?
「殿の喧嘩を引き継ぐ――」
これは譜代の、それも「傾奇者」の家老にしかできません。「喧嘩」をするからには、勝たねば意味がない。無鉄砲に藩士が吉良邸へ討ちかかって失敗でもすれば、赤穂武士の恥の上塗りになりかねません。開城―浅野家再興と、面子を立てる手順をみつつ、内蔵助は上野介の身辺を探索していきます。
こうした内蔵助の「傾奇者」ぶりは、「喧嘩」途中の祗園や島原、伏見での派手な遊びにも、その人柄が垣間見えます。彼は幕府の目をごまかそうと芝居をしたのではなく、むしろ、“傾(かぶ)く”己れを世間に見せつけたかったのでないでしょうか。
こうして内蔵助は見事に己れの「喧嘩」に勝ち、後世社会はこの人物を、“忠臣蔵”の主役に据えたわけです。
浅野家の菩提寺 曹洞宗江戸三ヶ寺 泉岳寺 東京都港区高輪2-11-1
「この吉良上野介は名家が集う高家の筆頭であり、吉良家は足利将軍家の分家です。しかも上野介は各種儀礼に精通し、経験も豊富でした。一度として、大切な儀式・典礼を失敗することなく勤め上げたといいいますから、有能な人間であったことは確かです。浅野内匠頭は「このあいだの覚えたるか」といきなりを脇差しを抜いて斬りつけたそうですが、そもそも、この二人の間に「殺す」「殺される」ほどの遺恨を残すような接点はほとんどありません。文献を読み解くと、内匠頭は、これまでに奇行と呼べるようなこともたびたび行っていましたので、現代でいう“発達障害”をもっていたのかもしれません。何にせよ、恐らく上野介は、亡くなる最期まで、なぜ自分が斬らなければならないのかわからなかったでしょうね」
「そう聞くと、吉良さんが憐れに思えてきますね」
「私も、そう思います。忠臣蔵のなかでは悪人として描かれていますが、実際の彼は至極まっとうな人物でした」
普通に歩いても2時間以上かかる距離を、赤穂浪士たちは20kgの装備でありながら3時間ほどで踏破したとあります。
「両国で大立ち回りとした後ですから、かなりの強行軍ですね」
「こんな大人数で、よく討ち入りを果たせましたね。いくら何でも47人もの武装集団がいたら、幕府に知られなかったのでしょうか?」
「いいところに気づきましたね。これは、当時のいわゆる“士農工商”という身分制度の、実質的崩壊が背景にあります。武士は身分としては高いのですが、実質的に力を持っているのは金持ちの商人です。よく時代劇で、武士が刀を抜いて“無礼者!”と斬りつけるシーンがありますが、実際に武士が刀を抜くと、切腹沙汰の大問題です。つまり刀は抜いたら最後、ほとんど自滅を意味しています。町人もそれを知っているので、武士に対する恐れや尊敬の念はあまりなかったと思われます。」
「平和な時代は、武士にとっては辛い時代なんですね」
「肩身の狭い生活だったでしょう。そういったこともあり、幕府はこの事件を“武士の尊厳”復活の好機と捉えました。」
「つまり幕府が、見て見ぬ振りをしたというわけですか?」
「恐らくは、そうでしょう。その思惑は見事にあたり、赤穂浪士たちは『忠臣蔵』の物語として人気を博したわけですから。」
「そうなるとますます、吉良さんがかわいそうですね…」
「ひどい巻き沿いにあってしまっただけでなく、長らく悪人として語られてきたのですから、たまったものではないですよね。とはいえ、近年になって、史実が知られ始めたことで、彼の人格や功績も正しく評価されはじめてきました。」
加来耕三先生 清水夏子さん
東京新聞ほっとwebより、抜粋・編集
http://hotweb.tokyo-np.co.jp/history/201411.html
文・構成 編集部 / 監修 加来耕三
また、麻生副総理は真田幸村の兄の真田昌幸ですね。幸村はまだ明かされていませんですね。なにか時期的な理由等があり明かさないのかもしれません・・意外な人物かも・・
ちなみに、DAIGOの叔父の竹下登氏は斎藤龍興ですし、北川景子は小野小町でしたが、じゃぁDAIGOは誰の生まれ変わりなんでしょうかねぇ~、って、関係ない話に行ってしまってゴンメ(爆)

「忠臣蔵」で有名な元禄赤穂事件の発端は元禄14(1701)年3月14日、江戸城中「松の廊下」における刃傷沙汰にあります。折しも京都からの勅使饗応の期間中、接待担当の大名である赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が、儀式儀礼を指揮する立場の高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に斬りつけたのです。
2度に渡り切りつけられたものの、吉良上野介の命に別状はなく、切りつけた浅野内匠頭は即日切腹、被害者とされた吉良上野介はお咎めなし。
江戸時代は「喧嘩両成敗」が慣習法として浸透していたため、その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石内蔵助良雄(よしたか)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名は、主の敵討を誓います。
紆余曲折の末、元禄15年12月14日未明に、本所へ移った吉良邸へ討ち入りし、見事その首級をあげたのです。
当然ながら、浪士たちはその後、切腹となるのですが「生命を賭して主の汚名を晴らした忠義の武士」として、語り継がれたのが「忠臣蔵」の物語です。
しかし、実際はどうであったのでしょう? 当時の時代背景や、さまざまな文献を照合していくと、そこにはまったく違った「赤穂浪士」の姿が浮かび上がってきます。
そもそも、なぜ浅野内匠頭は、吉良上野介に斬りかかったのか?そして、なぜ浅野内匠頭だけが切腹を申し付けられたのか?
前述の通り、内匠頭は切腹なのに、上野介はお咎め無し。喧嘩両成敗のはずが、相手方はお咎め無しでは赤穂武士の面子が立ちません。そこで討ち入りへとつながったわけですが、四十七士の内訳を見てみると、不思議な現実に幾つも出くわします。
例えば、当時、赤穂藩を統率していた四人の家老のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助だけです。家老の下にいた五人の組頭は、全員、吉良邸へは推参していません。つまり、上級藩士の討ち入り参加者は、“家老”の内蔵助ただ一人だけであったことになります。
次いで、赤穂浪士の主力ともいうべき馬廻りクラスの19名。彼らは戦場において、主君の馬を守るのが役目ですから、参戦はうなずけます。ところが腑におちないのが、彼らとは別に、まとまった人数を出した軽輩の人々18名。彼らは藩主内匠頭の顔も、おそらく声すら聞いたことはないはずです。にも関わらず、仇討ちに参加しています。
要するに彼らは50年前の世に溢れていた、「傾奇者・かぶきもの」の生き残りなのです。「侍道」の勇気を重んじ、「一分」に体面を賭け、売られた「喧嘩」は買わぬことのない人々。そもそも「傾奇者」は戦国時代、合戦での勝利を唯一無二とした、武士のアイデンティティから派生したもの。
勝つためには己れの全てを放棄しても、決して悔いることのない精神です。しかし泰平の世となっては、その存在意義を失ってしまいました。そこで彼らが起こしたブームが「殉死」です。寛文3(1663)年に四代将軍・家綱が「殉死」の禁止を制度化しますが、一部の傾奇者は「殉死」への思いを捨て去ることができなかったのでしょう。彼らにとっては、純粋に主人の仇を討つのが主題ではなく、自分たちが世間に顔向けのできる「一分」を手にすることの方が、重大事であったわけです。
その最大の具現者こそが大石内蔵助でした。内蔵助は譜代の家老でしたが、当時の藩を引っ張っていたのは、一代家老の大野九郎兵衛。内蔵助は「昼行灯」と揶揄されるほど出る幕がありませんでした。ところが、主君が不意に上野介に「喧嘩」を売った。このとき、初めて内蔵助は己れのやるべき役割を自覚したのではないでしょうか?
「殿の喧嘩を引き継ぐ――」
これは譜代の、それも「傾奇者」の家老にしかできません。「喧嘩」をするからには、勝たねば意味がない。無鉄砲に藩士が吉良邸へ討ちかかって失敗でもすれば、赤穂武士の恥の上塗りになりかねません。開城―浅野家再興と、面子を立てる手順をみつつ、内蔵助は上野介の身辺を探索していきます。
こうした内蔵助の「傾奇者」ぶりは、「喧嘩」途中の祗園や島原、伏見での派手な遊びにも、その人柄が垣間見えます。彼は幕府の目をごまかそうと芝居をしたのではなく、むしろ、“傾(かぶ)く”己れを世間に見せつけたかったのでないでしょうか。
こうして内蔵助は見事に己れの「喧嘩」に勝ち、後世社会はこの人物を、“忠臣蔵”の主役に据えたわけです。
浅野家の菩提寺 曹洞宗江戸三ヶ寺 泉岳寺 東京都港区高輪2-11-1
「この吉良上野介は名家が集う高家の筆頭であり、吉良家は足利将軍家の分家です。しかも上野介は各種儀礼に精通し、経験も豊富でした。一度として、大切な儀式・典礼を失敗することなく勤め上げたといいいますから、有能な人間であったことは確かです。浅野内匠頭は「このあいだの覚えたるか」といきなりを脇差しを抜いて斬りつけたそうですが、そもそも、この二人の間に「殺す」「殺される」ほどの遺恨を残すような接点はほとんどありません。文献を読み解くと、内匠頭は、これまでに奇行と呼べるようなこともたびたび行っていましたので、現代でいう“発達障害”をもっていたのかもしれません。何にせよ、恐らく上野介は、亡くなる最期まで、なぜ自分が斬らなければならないのかわからなかったでしょうね」
「そう聞くと、吉良さんが憐れに思えてきますね」
「私も、そう思います。忠臣蔵のなかでは悪人として描かれていますが、実際の彼は至極まっとうな人物でした」
普通に歩いても2時間以上かかる距離を、赤穂浪士たちは20kgの装備でありながら3時間ほどで踏破したとあります。
「両国で大立ち回りとした後ですから、かなりの強行軍ですね」
「こんな大人数で、よく討ち入りを果たせましたね。いくら何でも47人もの武装集団がいたら、幕府に知られなかったのでしょうか?」
「いいところに気づきましたね。これは、当時のいわゆる“士農工商”という身分制度の、実質的崩壊が背景にあります。武士は身分としては高いのですが、実質的に力を持っているのは金持ちの商人です。よく時代劇で、武士が刀を抜いて“無礼者!”と斬りつけるシーンがありますが、実際に武士が刀を抜くと、切腹沙汰の大問題です。つまり刀は抜いたら最後、ほとんど自滅を意味しています。町人もそれを知っているので、武士に対する恐れや尊敬の念はあまりなかったと思われます。」
「平和な時代は、武士にとっては辛い時代なんですね」
「肩身の狭い生活だったでしょう。そういったこともあり、幕府はこの事件を“武士の尊厳”復活の好機と捉えました。」
「つまり幕府が、見て見ぬ振りをしたというわけですか?」
「恐らくは、そうでしょう。その思惑は見事にあたり、赤穂浪士たちは『忠臣蔵』の物語として人気を博したわけですから。」
「そうなるとますます、吉良さんがかわいそうですね…」
「ひどい巻き沿いにあってしまっただけでなく、長らく悪人として語られてきたのですから、たまったものではないですよね。とはいえ、近年になって、史実が知られ始めたことで、彼の人格や功績も正しく評価されはじめてきました。」
加来耕三先生 清水夏子さん
東京新聞ほっとwebより、抜粋・編集
http://hotweb.tokyo-np.co.jp/history/201411.html
文・構成 編集部 / 監修 加来耕三